スポーツ嫌いの原因で考えること1

森永

もともと私自身、体育の授業程度はOKなレベルだけど、運動の部活は駄目な軽度の心臓の先天性障がいがあるんですね。で、なんとなく、スポーツはやるよりも見る方が好きかなーというタイプになってしまいました。オリンピック・パラリンピックはめちゃめちゃ楽しみですし、ボランティアもやろうと思っています。

一方で自分の周りには、本当に心底オリンピック・パラリンピックなんか東京に来なきゃいいと主張する、スポーツもスポーツに関わる人もスポーツファンも、とにかくスポーツに関わるもの全てがめちゃめちゃ嫌いな人がいるんですね。嫌いというよりは、もはや憎しみと言ってもいいレベルであるように感じます。私はスポーツが好きなので、そんな憎しみがこもったスポーツ否定論をぶつけられると悲しくなってしまうのですが、一方で彼らにも理由があって、それを知りたいなあと思いまして。スポーツに憎しみを向ける人と自分はいったい何が違うのか、チャンスがあると質問するんです。「なんでそんなに嫌なんですか?」って。回答がかなり集まってきた結果見えてきたことは、スポーツが嫌いなのではなくて、体育が嫌いという根源に行き着きました。

河合

つまり学校の授業、運動の部活動ですよね。

森永

ですです。学校の授業で体育が嫌いになる体験をして、そしてその体験を自分に与えた体育会系の人が嫌いになる、という流れです。。

河合

そうそうそう。

森永

例えば小学校のときに運動が得意ではなかった子は、先生にみんなの前で何回も何回も飛べない跳び箱を跳ばされたり、鉄棒が出来るまで帰れなかったりして恥をかかされたと感じる。さらにはそういった状況を、運動が得意な子たちにバカにされたりいじられたりして、いじめのような体験に発展する。体育を通じて、集団の中にヒエラルキーが生まれ、最下層に置かれてしまう状況になる。そしてそういう行為をしてくる人たちはたいてい、体育会系の人か、体育会系の人と仲が良い「集団の中のメジャー勢力」側。一連の経験で、体育会系の人が憎くなり、その人たちが関与するスポーツ全体が憎くなって、その思いを今もそのまま持続しているんだなと。だから、体育会系の頂点の人たちが関与するオリンピック・パラリンピックはもう、悪の枢軸のイベントのように感じられてしまう。

体育を通じて発生するヒエラルキーに限定すれば、私も最下層組に分類されると思います。でも体を動かすのは嫌いじゃないし、スポーツを見るのはむしろ大好きなんです。憎む憎まないの境界線はどこなのかと考えていたのですが、私の中では体育とスポーツは別物だからなんだなあと気付いて。スポーツは自分との戦いという感覚で、その戦いと向き合っているアスリートの姿が好きなんですね。だからヒエラルキーとは無縁の存在だととらえていたんです。でもこの「あなたのひどい体験を生んだ体育とは別だよ!スポーツを嫌わないで!」という私の気持ちが、憎しみを抱えた人の心に響くことはなくて……寂しい気持ちになります。

河合

学校がそうだったんです。学校は選抜するためにすべての授業を行っていましたよね。だって過去にはテストの順位も貼り出していたわけですからね。成績貼り出しついては、あからさまだって廃止になったけど、体育の場合は、個々のパフォーマンスが授業中にあからさまにみんなの目に見えちゃうから、ヒエラルキーを生み出してしまう話になっちゃうんですよね。学校は基本的には比べる文化、相対評価の文化だったから。

今の教育の評価の軸は、絶対評価に変化したので全員が5が付く可能性がある。そういった絶対評価がしっかり出来ていれば、大きな変化、転換ですけどね。

森永

確かに!私は40代なのでまさに相対評価の時代の人間ですね。同世代に体育嫌い・体育憎しの人がそこそこいます。その「相対評価のせいでヒエラルキー環境下にあった」世代である私の個人的感覚からすると、障がい者のかたも、運動苦手族と同様に体育ヒエラルキーの最下層だよねえ?などと安直に考えてしまうんです。でも、スポーツ憎しに向かわずにパラアスリートが生まれてくる状況は、運動が苦手だったがゆえに体育会系を敵認定した健常者と何が違うからなんだろう、って不思議なんですよ。

河合

一つの答えで言うなら、ただ障がい者にも幅があるということですね。

森永

あー、そうか、その通りですね。すでに私の見方に問題が見えますね。主語が大きすぎですね。

河合

障がいのある人たちと括っている中にも、スポーツが好きで得意な人がいるのと同時に、スポーツが出来なくてヒエラルキーを感じて体育会系を嫌いと感じる人たちがいる。だからいま、非障がい者全体と障がい者全体という上下関係でパラダイム構築してましたけど、それぞれに運動が得意と不得意が分かれるので、障がい者かどうかではなく、運動が得意な人軸と、不得意だから引け目に感じる人軸で考えたほうがいいんじゃないですかね。

森永

その通りですね……。自分の認識の問題に直面したそばからこんな質問をするのもなんなのですが、障がい者の中でスポーツが好きな人たちは、健常者の中でスポーツ嫌いな健常者たちはどういう存在に感じられるのでしょうか?

河合

僕は立場的なこともあるんで言い切りづらいですけど、やっぱりスポーツが嫌いな人は一定数いると思っています。でもそんな中、そういう人たちから集めた税金の一部が、スポーツに投資されている現状もあるじゃないですか。

だから僕は、もっとスポーツは国民のためになければならないと基本的には思っているんですよ。その時にスポーツを競技スポーツみたいな非常に狭い範囲で論じるとヒエラルキーみたいな話題になりがちなんだけれども、もうちょっとワイドに考えたとき、人間誰しも健康で長く生きていきたいなっていう気持ちはほぼ多くの人たちに共通すると思うんです。そのためのツールとして体を動かすこと=スポーツ、という文脈だったら反対する人って非常に少ないんじゃないかなと思っているんですよね。

だから今までの体育の体験やそこから派生したスポーツのイメージが、非常にネガティブなものだったことによるトラウマも含め、もっとワイドなスポーツの世界を気付かせてあげることが大事です。ジョギングやウォーキングも流行ってもいますしね。まさに健康で長く生きていく目的にスポーツを使っていますよね。スポーツをすることで、自分の体のことを知るのは自分を知ることの一部なんですから、当たり前ですけどすごく有意義なんですよ。

健康で長く生きるための活動という意味においては、ダイエットに取り組むのもスポーツのひとつだと思うんです。その自分と向き合うってことに否定はされないですよね。僕はそのスポーツ憎しと言ってる人は本音の部分は違うんじゃないかなと思います。

だから、それをどう価値転換してあげたらいいか、マインドセットをどう変えてあげたらいいのか、国あるいはスポーツクラブがもっと働きかけられるかどうかだと思うんですよね。

森永

スポーツ憎しの人たちも本音のところでは違うんじゃないかというのは、具体的にはどんなことなんでしょうか?

河合

先ほど言った体育が嫌でスポーツなんかやりたくもないと言ってる人は、別に糖尿病になってすぐ死んでもいいんだって、20〜40代で思っているんですかね? 例えば美を追求したり、エステに通ってみたり、スポーツジムで健康維持に取り組む人も山ほどいるわけじゃないですか。別にその人たちは何かスポーツが目的なわけじゃない。スポーツに対するアプローチ、何を目的にスポーツをするかは人それぞれでいいと思います。

僕はそういう意味で究極的にスポーツは、自分と向き合うツールでもあると同時に、やっぱり社会的な活動の一環でもあると思っています。いわゆるコミュニケーションのツールとして、スポーツをもっと捉えてもいいと思っているんです。

スポーツはもともと余暇から発祥したものだから別に強くなくていいんですよ。遊びから始まっているので、楽しく出来ないものはスポーツと呼ばないと僕は思っています。もちろん僕がパラリンピックでメダルを獲る取り組みの中には、しんどいこともありましたし、さまざまな経験もしたと思っているんですね。でも何でそういう苦しいことに自分が向き合えたかって言うと、多分本音のところでそのスポーツが好きだからや、仲間たちがいるから出来るっていう、楽しさの中にある話なんですよね。

障がい者×スポーツも、きっかけは至ってふつう

森永

障がい者との接点が少なく、ステレオタイプに主語を大きく捉えがちな私からすると、パラアスリートのみなさんがスポーツが好きになり、さまざまな種目がある中でたとえば水泳に絞り込んだり、仲間に出会ったりするには、どんなきっかけがあっていつどのタイミングでどうやって?と興味が湧いて仕方がないのですが、そのあたりを教えていただけますか?

河合

出会うのは障がい者も健常者も同じような理由ですよ。学校の部活にあったり、お兄ちゃんがやっていた、両親が勧めたりテレビで見て憧れて問い合わせたり。そんなに大きく変わらないです。障がいがあるからと皆さん思いがちなんですけど、一緒ですよ。接点がなく知らないことによって、分からないになり、すごく勝手にミステリアスな理由があるに違いないと思い込んでいるのです。

森永

健常者側が勝手に思っているほど障がい者の世界は狭められておらず、世の中に接点はすごくいっぱい溢れてる、知り合えるって事なんでしょうか?

河合

ありますよ。大小さまざま障がいのある人は、世界中で1割以上ふつうにいるんですから。世界だと10億人以上いるんですよ。日本人の10倍もいるんですから。

森永

それは中国やインドの人口くらいの規模ですね。そう考えると国家規模、すごく多い……。

河合

だから別にもう障がいがあることが特別じゃないし、10億人のマーケットを全て拾うことが出来たら一大マーケットじゃないですか。人口1億しかいない日本人の携帯電話の何割シェアがとなどと言ってる話が、まだこの日本であるわけだから(笑)。だからそういう発想が狭い。僕は日本のそういうところが、戦略性がないと言われるところだと思っていますね。

森永

そういう発想になりがちな理由に、障がい者の方との接点が日本はとても限られているところがあると感じます。生活圏が明らかに分かれすぎているとか、海外と比べて明らかな違いはあるんですか?

河合

そうですね。いろんなところでそういう課題はあると思うんですが、大きいのは教育と雇用ですね。ただ分けることによる良さ”も”あるんですよ。

例えば日本はOECDの国の中で、一人当たりの子供に対して最も教育費を掛けない国のナンバーワンなんです。それに対する日本の政府の答弁は「日本の教育は非常に合理的で効率的に教育を施すことができる」と、売り文句にしてるわけですよ。

教育費のほとんどは教師の人件費になりますから、教育費が掛かっていないということは、一人の教師対生徒の人数が多いということなので、教師の価値が合理性や効率性に置かれるわけですよね。一方で特別支援学校だとものすごく手厚いんですよ。重度の障がいになると3人に対して1人の担任を付けることが出来る。片や普通学校では40人に1人で、10倍以上なんです。つまり1人に掛ける教育費は、障がいのある子のほうが充実していると数字では言えます。でもこの充実は、普通学校と特別支援学校とで学ぶ環境を分けることにより実現できていることでもあります。

そういう意味で総じて、障がい者は社会性や地域から離れていってしまうとか、課題を含めてあるんじゃないかと思いますけどね。

森永

普通学校では運動の得手不得手によってヒエラルキーが生まれやすい中、手厚い特別支援学級ではどうなのでしょうか? 純粋にスポーツとして楽しめる環境が提供されるのか、どうしても相対評価が顔を出してきて、ヒエラルキーが生まれてきがちという、同じことが起きるのでしょうか?

河合

両方あるでしょうね。

森永

先生によるとか?

河合

そういうのもあると思います。

森永

本当に、健常者も障がい者も変わらない、抱える問題は同じですね……。