中華街の「街」のお仕事はどれくらいされているんですか?

石河

中華街の組合にはすぐ入ったんですけど、約10年前に理事になりました。8年前に広報部長になり、そこから中華街の仕事もちょっとずつ仕事が増えていきました。そこから常任理事、専務になっています。僕が広報部長をしていた当時はADだった人などもえらくなり番組をいくつも担当するディレクターになったりで出世されているんですよね。今でも仲良くさせてもらってます。

石河さんご夫妻にとって中華街ってどんな街ですか?

石河

僕にとって中華街は夢が叶った土地です。僕やマキが経験して来た事をもとに二人で夢見て来た事がこの土地で叶いました。また人の温かさを教わった土地でもあります。知人がひとりもいないこの土地に飛び込んだよそ者をたくさんの方達が応援して下さいました。

街の活動に骨を削っていますが、それは少しでも街に恩返しをしたい気持ちからです。

早園

私にとってはもうふるさとというか、帰るべき場所みたいところです。

同じ中華街という土地で頑張る人達は同志というか、血のつながりはないけど、親戚のような存在です。

もともと中華街でお店をやろうと思っていたんですか?

早園

いえいえ違います。アンティークなものや骨董が好きだったので、よくデートで骨董品を探しに鎌倉へ行っていたんです。なので最初は地元も茅ヶ崎ですし、鎌倉にお店を出そうと思っていたんですけど、全然ご縁がなかったんですよね。

石河

鎌倉では物件を探しても出てこないんですよ。仮に出てきても、若者相手には貸してくれなかったんですよ。僕たちはラブコールを出しているんですけど、やっぱり敷居が高かった。ある意味、京都もそうなのかも知れないですけどね。鎌倉は結局半年ぐらい探してましたね。全然物件は出てこなかったよね。

早園

毎週鎌倉の不動産屋を必ず1件は覗いて、声をかけてみたいな。

石河

こいつらまた来たよって雰囲気のところもあったよね。

早園

転機だったのは、学校の同窓会でたまたまお盆の中華街に来たんです。

石河

お盆だったせいか中華街がめっちゃ混んでいて、毎週末これだったらヤバくないって話になって。(笑)

早園

そこから鎌倉じゃなくて中華街じゃない!って、急に中華街がよく見えはじめたんです。

石河

街の盛り上がりが見ていて楽しいし。中華街自体がアジアのどこかの街みたいじゃないですか。

早園

最初からキレイな駅ビルみたいな所でやるって頭はなかったよね。鎌倉とかそれに準じた繁華街みたいな、ちょっと雑多な場所でやりたいと思ってましたから。

石河

もしご縁があって鎌倉でやっていたら、アジアンミックスではあるけれども、もう少し和よりな雰囲気になっていたかも知れないですね。

もともと地縁がすごくあるんだと思っていました。

石河

(中華街には)ないです、ないです。むしろ鎌倉ほどじゃないけど、中華街で物件を借りるときも、やっぱりいくつかの不動産屋さんは貸してくれなくて、中国人の親戚の有無も聞かれたり。だって日本人なんだから、いるわけないじゃないですか。

早園

私は子供の頃、父の会社の関係で中華街にはよく連れてきてもらってました。兄も中華街学院で空手を習っていたりしましたし、私はけっこう縁があったほうですね。

石河

(顔が少し濃いこともあって)遠い華僑なんだよって噂されている話を聞いたことがあるんですよね(笑)。

早園

日本人だけでお店をやっているのは、なかなか中華街では珍しいみたいです。

石河

日本人だけでやっているのは、ここではマイノリティーなのかもしれませんね。でも、逆に利点もあります。当然中国や台湾をルーツとした様々な属性のコミュニティーがあるんですが、僕は日本人で若者でよそ者だから、どんなコミュニティの誰とでも仲よくできる利点があるわけですよ。

早園

(石河の)顔も何人か分からないからね(笑)。

そもそもお二人が出会い、お店を始めるきっかけとは?

石河

僕らは元々小学校〜高校まで同級生で友達ではあったのですが、特別仲が良いという訳ではなく、でも大学生の夏休みのタイミングで、マキのお母さんが横浜の地場産業の事業をされていたので興味があり、そこへバイトに行かせていただきました。マキとはそこから意気投合して付き合い始めました。因みに今は違う事業でマキのお兄さんが社長をしています。

早園

私の両親が茅ヶ崎で事業を始める前は、ハンドトレースから捺染型を製造する会社を鴨居で営んでおりました。当時は私達の家族は弘明寺の方に住んでいました。

横浜の捺染事業は戦後からバブル期にかけては、けっこう需要があったたんですよ。

石河

大岡川沿いは染め物が盛んだったので、プリント屋さん、捺染屋さんは川沿いに多くあったんです。それに伴い型屋さんはそこから近いところにあったんですね。

早園

昔ながらのアパレル業態と同じく、この横浜の捺染事業もかなり分業化されていました。デザインはメーカーが行い、図案は図案屋さんが起こし、それをウチのような会社が色別にフイルムの上にトレースして、写真製版でシルクスクリーン型にする。

今度はその型を捺染屋さんに納めプリントが施され、最後の縫製は縫製屋さんが行う。1枚のスカーフやネクタイになるまでに、色々な工場を渡るんですよね。そのような会社を元々は横浜でやっていたのですが、私が10歳の頃、茅ヶ崎に引越して継続する形になりました。

石河

元々ものづくりに興味があったんです。それで二人でバイト帰りに一緒に帰ったりする中で、自分はいつかお店をやりたいんだ。いつかオリジナルのものを作って売るという話をしたんです。するとマキもやりたいって話になって。

早園

結局ウチの事業はこの分業化された中の一部ですし、もちろん本当にすごいことはやっているのですが、いつも父親からは、モノを作るところからお客さんの手に渡るまでやるべきだと言われていました。イタリアなんかはそうなんですよね、今でいうSPAのように、デザインから販売まで一貫してやっているからとか、 そういうのを自分のお店で自分たちで売れたらいいねと盛り上がりました。そこから実現の為の計画を立て始めました。

石河さんがモノづくりに興味を持った背景はなんですか?

石河

僕は小さいころシンガポールで育ったんですよ。シンガポールの人たちには、中国文化とマレー文化とイギリスの文化の混ざったプラナカン文化というのがあるわけです。そして、シンガポールではそのカルチャーを大切にしていて、それはすごく自然だし良いことだと思っていました。一方で外から日本を見てみて日本の良いところもたくさん見えました。

でも日本に帰ってきたら、なんだか日本は外から見たイメージとちょっとちがう。日本は自分たちの良いところを気がついてないようで西洋にばかり憧れを抱いている印象でした。自分たちの解釈で自分たちのものとして、なんでプラナカンのように文化をミックスさせないのかと不思議に思っていました。

ですから、それくらいの頃からぼんやり日本のいい部分やアジアのいい部分をもっと紹介したいなと思ったんですよ。それで今のような仕事をやることにつながっていったんじゃないかと思います。当時マキもモデルをやっていたんですよね。

早園

そうですね。モデルをやる中ですごく幸運だったのが、山本耀司さんのパリコレに出演させて貰った事です。普通私ぐらいの身長じゃパリコレのランウェイを歩けない。でもたまたまそのシーズン、耀司さんがジャポニズムをテーマにコレクションを発表して、そのテーマに私のようなモデルがしっくり来たのではないかと思います。

石河

当時としてはそういうスタイルは斬新だったんですよね。

早園

二人でどんなコンセプトで物作りするか考えてました。その頃、和ブームやアジアブーム再来みたいな時期で、石河からシンガポールの話を聞いたり、親の会社でベトナムに行かせてもらえる機会が多くありました。その頃のベトナムはカルチャーショックだったよね。混沌とした中に面白さと可愛さみたいなものが混じり合っていて、こういうミックスさせたものをやりたいと二人で話をしてました。

石河

昔ベトナムはフランス領だったのでフランス文化みたいなものが残っていました。

早園

うちの一番上の兄はベトナムに移住しまして、自社の工場の管理などをしています。オープン当初の物作りは、そんな兄の会社の生産ライン一部お借りしてやってました。

100%ベトナムでの生産で、向こうに行って自分達で生地を探して、その生地を工場に持って行き制作をお願いしてました。

石河

少なくとも年に3〜4回は行ってたよね。

早園

あのころは良かったよね。

石河

良かったね。

早園

まだコストなんかも安かったからね。でもやっぱり限界が出てきますよね。

石河

ベトナムでの物作りに限界を感じて、今度は国内に工場を探しました。でも日本の工場はおろか、生地の購入先も分からず苦労しました。またなんとか工場を見つけても、アパレル経験もない僕たちは足元見られてしまって、当時お店が中間業者を挟まずに工場に直接縫製を発注するなんて、なかなか無かったですからね。だから面白いものが出来たんですが。

早園

上海店がオープンしたてのは、ちょうど長男が生まれた頃だったよね。

石河

一年間上海で実店舗を構え、上海の会社自体は二年間を経営していたんですけど、毎日事件が発生していました。もう事件が無い日がないんですよ。向こうには月に1回行ってたんですけど、それじゃあ全然足りなくて。毎日仕事が終わるとスカイプで現地で連絡をしてその日の報告を受けていたんですが、本当にいろんなことがありましたね。今では良い思い出です。本当に良い経験をさせてもらいました。

現在ではその上海店も、また日本に4店舗あったお店も閉めて、元々の中華街店と原宿店の2店舗に絞りました。

そして自分たちのブランドもやりつつ、今までの経験を活かし、他社ブランドのものづくりもお手伝いをしたりしています。