スポーツ新聞の見出しの作り方

平林

スポーツ新聞の見出しのセンスってたまに飛び抜けていることがありますよね。すごいなと思って。

寺沢

僕もすごいなって思います。

平林

批判を越えたところにある表現の見出しもありますよね。

寺沢

よく思いつくなと思うんですけど、あれはきっと降りてくるんですよ。見出しを決める人と記者は別です。

一同

へーーー。

寺沢

そうか知らないんだ。

平林

見出しは書いた記者がガンガン出しているのかと思いましたよ。

寺沢

うちは内勤と外で分かれていて、僕らのことは出稿記者と言うんですよ。記事の原稿を出すんで出稿記者。カメラマンも写真原稿だから出稿記者ですね。それを全部受け取って、各写真や記事だったりのデスクを通して、今度は紙面を整理する整理部に送られます。その人たちがみんなが昼間に取材してきた締切前にやっつけてきた写真と原稿を見る。その時点そこには何もないんです。紙の新聞のページの割付け用紙は15段になっているのがあって、そこにいろんな絵を描いていきます。見出しをどうしようか、写真をこのぐらいの大きさにしようかと考えます。そこからバーっと配置を決めていました。今はもう全部デジタルなんでピーッとやるとヒュイーンと伸びてやってくれるんです。

それで以前は凸版といって凹凸のあるやつで見出しを作っていたんですけど、それも発注して作っていたんですよ。しかもそれも新聞用のものさしがあり、その単位があって、その単位で長さが決まる。これでこういう感じにして袋地にして影を付けて、ここのところのバリを取ってとかなんて色々注文つけて、それをドカンと出す。それは全部紙なんですよ。記事のほうも写真や見出しがある体で、そのスペースを作っていって、記事自体は15段ある中で、ここにパンと置くとこれ壁を作ると、本来的にはここで見出しが入るところで壁を作って、ピッてやるとそれが反射してこういう風に流れていくんです。ていうのを割り付けてそれがフィルムになって出てくる。フィルムになって出てきたやつを台紙に貼って、で注文していた写真の紙になったやつ、それをどんどんどんどん貼っていくんですよ。そうすると図が出来る。

これであんまり段取りが悪い整理マンになると、「あ、見出しが一段足りなかった」すみませーん出し直しですと言って作り直しです。じゃあ足りなくなったところに違う言葉を入れる。その足りなくなったときに、あれここのスペースが空いたというところに捻り出して来たのが、流行語大賞になったりしているケースがありますからね。日刊スポーツで出したので言うと、横浜ベイスターズの1997年に優勝したときのマシンガン打線。あれはうちの整理マンが考え出したものです。

野村

なるほど。

寺沢

あれも、マシンガンみたいだねって言って、じゃあマシンガン打線で行くかーて言って。

野村

会議では生まれないんですよね。コンペでも生まれなくて。

寺沢

追い込まれて、追い込まれて。写真も記者の子がカメラを撮って来たりするときも、記事は考えるんです。写真のことも考えるけど、いざこうなると写真がないからいくら記事を書いても埋まらないなというときに、どうしようと思ってパシっと撮ったら、「あ、これ良かった」ということが時々ある。最後の最後でドラマ作ってくれて助かったってなりますね。

平林

取材してる時には、その記事が写真ありで新聞に載るのか、写真なしで載るのかはまだわかんないんですか?

寺沢

基本的に僕の場合は、もし面の原稿を書くのであれば、写真ありで書きます。写真ありきです。写真なしで原稿だけで読者を楽しませるのは結構キツイです。かなり難しいと思う。スポーツ新聞は写真ドカーン、見出しドカーンというのがあって、最低でもやっぱりいい写真1枚、サブの写真が2枚あると締まる。それを10枚も20枚も出されると困っちゃう。

平林

それだけのことをあっという間にやりますよね。

寺沢

毎日よく新聞を作っていると思いますよ。

平林

毎日ですもんね。

寺沢

僕がこうやって話しているあいだでも、誰かがどっかで今日の新聞を作っているんですよ。

でも写真の勉強も記事の勉強もしないといけないですよね?

寺沢

それは慣れです。超慣れ。

平林

でも写真も文字も基本は一緒なのかなと思って。

寺沢

うん。視点かもしれないですね。見るところが散漫だとあまり良いのが出来ないです。

平林

文字の方でそれが出来ている人は、カメラを持たされたらそれなりの写真が撮れるなって思う。

寺沢

そう。だから良い記者は良いカメラマンだし、良いカメラマンは良い記者なんですよね。

平林

どこを見てるかと何をピックアップするのか、何を整理して出すのかで感じるんだけど、両方ダメな人もいますよね。

寺沢

いる。何年記事書いているの?みたいなことは稀にありますね。結局主語が無き原稿なんです。いろんな人が出てくるんだけど、基本的に一番良い原稿は最初に名前が出てくると、あとはその人が主語なので、どんなに長くてもその後には主語が出てこない原稿が一番良いんです。 だってもう主語が決まっているから。主語が一つの文章の中で、くるくるくるくる主語が変わるような原稿だと、たぶん読者がついていけないですよ。

平林

ブレているみたいに感じるよね。

寺沢

それをうまく書ける人はたぶん文章が上手いでしょうね。

平林

写真も撮っていると実は主語があります。この写真で主語は何なの?モノでも何なの?って。

映像だとまだ映像で分かるだけ良いんですかね?

寺沢

映像でも絞らないととっ散らかると思う。

なぜNTT Docomo からフジテレビへ?

野村

僕はDocomoでワンセグをやっていたんですよ。

寺沢

ワンセグって懐かしいなあ。

野村

2000年〜2004年まで東京のDocomoにいたんですけど、放送関連で新しい事業を立ち上げようという部門にいて、最初はBSのチューナーに携帯電話を埋め込む作業を一生懸命やっていました。それは規格化には成功したんですけど、実際携帯電話を入れるのはコスト増になるので、実際に入ることはありませんでした。それをやっている中、地デジになったら携帯電話でテレビが見られるような方式があるというところからスタートして、その事業は最初衛星ビジネス部が担当するんですよ。そこって衛星電話が担当なので、衛星繋がりというだけで場違いなところに行っちゃったんですよね。

それで場違いなところが何をしたかと言うと、何をやるかが分からないからまずマッキンゼーにコンサルを依頼するんですよ。それを担当したマッキンゼーのコンサルで当時のマネージャーだったのが南場さん(DeNA創業者)。南場さんがまとめた報告書の中で、あちこちヒアリングをした結果、要は日本の地上波デジタル放送が1つのチャンネルを13セグメントに分けることができて、その分け方で1セグを使った放送が技術的には可能とありました。

それを使ってDocomoは1セグメントの電波を受信するチューナーを搭載し、当初BSデジタル放送のデータ放送でやろうとしたことを、携帯電話上の地上波で実現しようということなりました。その方針で人が集められて、それで日テレや TBSと実験をし、ワンセグの実現に向けて各所に訴えて来ました。そのあと総務省が1セグも出来るような免許方針を出したので、具体的な技術規格の検討をやるときに、放送事業者と通信事業者で意見が割れることがあって、僕は通信事業者側の人間として会議に出ていて、当時若いこともあって結構過激な発言をしていたんです。

それから1回ワンセグの事業からは外れて北海道のDocomoに戻っていたんですけど、そうしたらあまり付き合いのなかったフジテレビの方からお誘いを受けたんです。それで僕はフジテレビでワンセグをやるんだと思って転職するんですけど、実はフジテレビはワンセグをやる人を求めていなくて。単純にDocomo出身だからiモードを担当するんですよ!みたいな感じだったんです。だから辞めた会社に企画書持って毎週通うみたいな日々になり、受付で「何でお前そこで待ってるの?」と元の同僚に言われ、ちょっと転職したんですよーみたいな会話をしたりしていました。

寺沢

こんなはずじゃなかったみたいな。

野村

はい。でもせっかく放送局に入ったので放送のこともやりたいと思っていました。そういうときにCS放送は規模はちっちゃいけど放送のいろんなことを学べると教えてもらって、CSの事業部に行かせてもらいました。そのときにスポーツ編成担当になり、ちょうどブンデスリーガのドルトムントに香川選手が行くときに担当させてもらいました。やっぱり香川選手がドイツに行って活躍したことがすごく大きかったんですよね。すごくCSの加入者が増えました。あとCSでは競馬担当ですかね。

競馬担当で武豊騎手が自分のレースを解説する「武豊TV!」や「競馬予想TV!」というひたすらレース予想するだけの番組をやっていて、ちょうど凱旋門賞に日本馬が出ることになって。そのときにフジテレビの地上波は放送しないことになっていたので、CSで生中継にチャレンジしたら、2着になった貴重な瞬間を生で放送できました。そういう意味ではCSのスポーツは良かったですね。あと、実はそれまでぶっちゃけサッカーにはあまり興味無かったんですよ。中継は当番制なんですけど、自分はひたすらほぼ全ての中継に立ち会って、試合をスタジオで見るようにしたんですよね。もともと興味もないから家では見ないし、録画をしても見ないんで、だったら中継をスタジオで生で見るしかないと。当時サッカーの解説をやっていたのは清水秀彦さんや風間八宏さんだったんで、スタジオから出てきたときに生の話や、放送ではなかなか言わないようなことも聞かせてもらえたので、色々話を聞いてるうちに詳しくなっていきました。だから日本代表メンバーよりも先にドイツの代表の方を覚えましたよ(笑)。

寺沢

ブンデスリーガはプレーにも特徴があるからね。

野村

長谷部選手のいるヴォルフスブルクがチャンピオンシップ獲ったりブンデスリーガは見せ場があったんですよね。長谷部選手もすごく活躍していましたが香川選手と内田選手がドイツに行ってから急にですよ。香川選手が本当にものすごく点を獲りましたよね。あれで日本の評価がガラッと変わった感じがしました。

寺沢

いま海外に籍を置く日本代表の人が本当にいないぐらいだしね。

野村

だから彼らが本当に行って終わりじゃなくて、日本に戻ってきて活躍してくれるといいですけどね。海外がゴールになるんじゃなくて。

FODの担当は何年目ですか?

野村

8年目です。CSを3年間やったんですが、すごく楽しかったんですよ。なぜ楽しいかと言ったら稼がなくて良いんですよね。稼がなくて良いというのは少し語弊があるんですけど。

寺沢

お金を意識しないで仕事が出来るということ?

野村

そうなんです。儲けは連帯責任、でも費用はそれぞれの予算なんで、言えば使うだけだから、プレッシャーもまた違いますよね。

寺沢

僕らもそうですよ。全然金のことは意識しないでじゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ使ってますね。

野村

それでCSにもう1年いたいと言ったら怒られて、ゲーム事業に異動になるんですけど、それはそれで楽しくてiPhoneのミニゲームや、3000万の損を出してしまったゲームもありましたね(苦笑)。3000万円も損するとめっちゃ詰められるんですよね。今までもっと儲けただろうと思うんですがそういうことはチャラにしてくれない(苦笑)。

そんなこともあって、そこからFODの事業部門に転じて今に至る感じです。実は当時のFODは会社的にはお荷物扱いみたいな存在でした。ずっと赤字を出していたので、この事業大丈夫? やる意味あるの?やりたい人(会社)にやらせておけばいいじゃんみたいな空気がある中でした。だから自分が担当になる内示を受けたときは、本当に貧乏くじ引いたみたいな心境でしたね。当時は3000万円も赤字を出したからかなとか思ったりもしたんですけど、FODの部署に行ってそこで一生懸命やっている人たちの話を聞いたら、やっぱりここには鉱脈がすごくありそうだったんですよね。

それで当時のFODは赤字から黒字に転換したぐらいのタイミングでたいした売上がなかったんですけど、あの手この手を使いながらも現在は当時の10倍近くの売上規模になりました。予算を使うだけだとプレッシャーはなくていいんですけど、自分が発案したことや自分のアイデアだったり、自分が決定したもので物事が動いて行った結果として、利益もしっかり上がることはすごく楽しい面がありますね。

FODではマンガや雑誌の配信も始めましたけど、きっかけは自分がマンガが大好きで、LINEマンガで年間20万円ぐらい使っちゃったんですよ。これは嫁にバレたら超やばいと思って。半分冗談みたいな話ですが、こうなったら仕事にするしかないみたいなね(笑)。それで実際にサービスをローンチするまで2年ほど掛かっちゃったんですけど、初期開発費は数千万円でした。でもその時のFODは20億円ぐらいの売上規模まで来ていたので、その開発費を吸収できるレベルになっていたんですね。

1から事業を立ち上げるのはすごく大変ですが、FODの付加事業であれば、FODの大きな計画の中で行けるんで、そういう意味ではFODはもちろんユーザーに使ってもらうためのサービスなんですけど、最低でもやっぱり自分が使いたいと思うものじゃないとサービスにすることにはダメだろうと思っていますね。

寺沢

たしかに。たしかに。

野村

そういう意味でマンガも入れて、雑誌も読めるようにしました。