知られざる東日本大震災のはなし

寺沢

8年前の東日本大震災のときに、本当にたまたまだったんだけど、築地の会社から横浜の家まで自転車で通っていたんですよ。その日は年に一回日刊スポーツへ情報を頂いている釣宿さんのおやじたちが集まっている会議が箱根であったんです。その会議に出るとけっこう体力が奪われるわけ。だから一回会社に戻ってきて、会社に自転車があったんでそこから家路につくも、会議で削がれたスタミナが上手く戻らず、蒲田あたりでもう駄目だとなって。自転車をその辺りのフェンスに結びつけて、それで電車で帰ろうと思った瞬間に地震が来て、これ絶対ヤバいやつだなと。JR蒲田の駅ビルにエスカレーターがあるんですね。そのエスカレーターに寄っかかったら、エスカレーターが揺れるんです。100kgあるからな、嫌味なエスカレーターだなと思ったら、後ろのお姉さんが地震ですよねと言うから、そこで地震だと気づいて。ちょうどそのエスカレーターを昇ったところに花屋があって、花屋の上のところのパネルが、パンパンパンパンガシャンバラバラバラーン。その光景が思わずドリフだなと思って。だけどそのときは上手いことエスカレーターが動いていたんですよ。

まず電車に乗らなきゃと咄嗟に思ったんだけど、行ってから動くわけねえじゃんと。そこから自転車があるから、とりあえず会社に行こうと思って向かったら、あちこち車で大渋滞。電車も止まっているから、もしかして俺が一番早いんじゃないかと思って。そこからずっとあの時は自転車であちこち2週間は家に帰らなかったかな。今の生活の礎がここにあった(笑)。

そのとき自転車が最強だなと思いました。あのときはすごく自転車が売れたんですよね。

野村

当時はドンキとかで自転車はめっちゃ売れたと言ってましたね。高いやつまで売れたそうですもんね。

寺沢

あれから街のこ汚い自転車屋が、ちょっとおしゃれな感じにかなり変わって。自転車屋がキレイになった。

野村

僕は当時24Fにいて、もう本当にぐらぐら揺れて、コピー機がぶっ倒れたり冷蔵庫が倒れたりして、揺れもすごく長かったんですかね。長周波振動をモロに受けました。

寺沢

地震って二回あったじゃないですか。1回目が収まってから、キャーって声を出しながらヘルメットを被ってみんな出てきて。みんなヘルメットをかぶって外に出るんだと思いましたね。ヘルメットを被ってる人たちの写真を撮るべきかなと思いながらも、いやまだまだあるわってそこから動きました。それで言ったらそれどころじゃなくて、この地震はこっちじゃなくて東北なんだってなって。

野村

地震がようやく収まってテレビを見ると宮城県沖と言っているわけですよ。関東でこれだと東北はとんでもないことになるんじゃないかって。結果は案の定でした。津波も生中継で見てたわけで。

寺沢

あのとき何がめちゃめちゃ状況を放送したかというと、天気の定点カメラが各地の放送をしたわけ。それでカメラの向きが海に向かっていたじゃないですか。だから津波がやってくるのが分かって、波打ち際ぐらいに人が立っているのも分かった。テレビに向かって僕は「危ねえよ」と聞こえないのに言っていたことがあのときはあった。それぐらい何か現実のものでもないような状況がすごかった。

野村

携帯電話の緊急地震速報があるじゃないですか。あれ自分が出した特許なんですよ。

寺沢

えーーーー。すごい!

野村

緊急地震速報の仕組みはもともとあって、その緊急地震速報を携帯電話に最速で送るためのシステムを自分がDocomo時代に特許で出しました。特許使用報酬が入るので、不謹慎ですがケータイの緊急地震速報が鳴るたびに一人だけ心の中ではガッツポーズしてたんです。そういう制度があったんです。でも4万円しか振り込まれなかったんです。

寺沢

でも、すごいすごいすごい。

野村

Docomo時代にワンセグ事業をやっていた派生なんですが、当時ワンセグは結局放送局のものだから、Docomoは自前の基地局で通信免許の範囲で放送的なことが出来ないのか別に検討をしていたんです。ところがやっぱりドコモに割り当てられている電波帯と3Gの方式だと大したことが出来ず、今の携帯基地局と同じエリアにするなら下りは32Kbpsしか出ないと言われたんですよ。下り32KbpsというのはAMラジオだろっていうレベルしか速度が出なくて、ただのAMラジオでは市場規模が見込めないだろうとなり、この話自体は白紙になりました。

一方で携帯電話のメールは同報だと一個ずつ鳴るんですね。実は同報じゃないので。本当にここにバーっと携帯電話を持った人を並べて、同じメールアドレス宛に一斉にドンっとメールを送っても、一人ずつ鳴るわけです。

寺沢

時差があるんだ。タイムラグがあるんだ。

野村

それを本当に同報で鳴らすための仕組みを、携帯の基地局でやればいいという発想で緊急地震速報の特許を取りました。

寺沢

天災は忘れた頃にやってきますからね。

野村

東京で家買っちゃったのに良いのかなって。いつか天災は来るのに。

東京湾は津波が起きにくいって話もありますよね。

寺沢

津波は起きにくいけど、浸水はしやすいと思いますよ。水が入ってきたら逆に水が逃げていかないから。だから津波が起こらないにしても、その水が引かずにずっと留まり続ける可能性がある。1F部分が水浸しになるぐらいのところが足立区ぐらいまでずっと続くんじゃないですか。

番外編 僕たちはこうしてこうなった

寺沢

昔は髪をロン毛にしたり、その後バッサリ切って坊主に近い五厘刈りにして、また髪を伸ばすことをやっていました。だいたい年に二回でしたね。今のようにT字カミソリで頭を剃るようになったのは、僕が社会部時代、東国原知事担当でよく宮崎に行っていた時期があったんですよ。東国原さんは最初泡沫候補と言われていて知事に間違ってなっちゃって。それから四年間ずっと取材をしてました。あの人が選挙戦やったのは1月なんですよね。

そうすると1月からずっと来て12月はちょうど就任から一年になります。そうすると話が聞きやすいんですよ。ちょうどその頃のスポーツ新聞は、高校ラグビーに高校サッカーと紅白歌合戦しかないので、元日の休みにはネタがないんですよ。元日は唯一駅売りで売っているんですけど、1月2日は新聞がないわけです。365日のうちその日だけ売らない。つまり二日間持たせないといけないネタを元日にぶつけなきゃいけない。その時に必ず東国原英夫氏が何かネタを言ってくれるんですよ。

いつも色紙に例えば新党を作るとか宮崎で何かをやるとか、小洒落た言葉を書いたりしてくれます。毎年毎年やってくれてたんだけど、当時大人気だったんで時間が15分しか取れなかったんですよ。そのうちの最初5分は政治家っぽい話なんです。僕らにはそういう言葉はいらないし、芸人のそのまんま東が欲しいわけ。そこから5分経つとスイッチが入り、芸人そのまんま東で話してくれるわけです。こっちはどうやってギャグのほうに走らせようかそればっかり考えている。最終的にはギャグに走るんだけど、いつもちょうど乗ってきたところで終わっちゃうですよ。あと5分あればいいネタ取れたのにって、いつも思うわけです。

それで最後の年は、知事を辞めると言っていたので、ここで行かなきゃないな、何か考えなきゃなと思ってました。そのときはさすがに今みたいに短パンじゃないんですよ。当時はチノパンを履いていました。足元もサンダルではなくバッシュみたいな靴を履いていました。そのとき初めて頭を剃ってニット帽をかぶって、短パンを履いて12月27日に向かったんですね。いつもこんな感じで中に入って行って、知事が色紙を書くので、色紙を書き終わって顔を上げた瞬間、パンっとハゲだったら絶対知事は驚くだろうと思って、それで驚いたら俺の勝ちだと思ったんですよ。

それでニット帽かぶって入って行ったら、向こうは知事で一応取材じゃないですか。公文書として申請を出して認可された正式なものなのに、入ってきた記者が、ハーフパンツにニット帽なんですよ。知事は明らかに怒っているんですよ。仲良くてもいくら何でもそれはないだろうって。

ちなみに知事には秘書が3人いて、秘書さんには先に事情を説明して、15分そのまんま東にしてもらいたいんで剃りましたと伝えました。みんな驚いてましたね。いつも東さんとの話のときに付く秘書は一人なんですけど、そのときは3人みんな付いてましたね。それでパッと入っていったらやっぱり知事は怒っていました。それでこっちは秘書のほうも見ながら、僕も視線がおそらく頭にくるだろうと思い、瞬間を撮るために胸元でカメラを構えているんですよ。案の定、知事が顔を上げた瞬間にポカーンとした瞬間に写真を撮りました。もうそこから15分間ずっとそのまんま東だった。そのときは知事の人気も最後だったので。日刊スポーツの一面になりましたね。そのときに撮った顔は家宝にして撮っているんです(笑)。

その後で文化社会部という社会面と芸能面で記者のコラムがあったんですね。そこには記者の似顔絵を入れていたんですよ。当然僕は剃っちゃったので髪の毛がないから、今までの似顔絵が使えないじゃないですか。撮った東さんが驚いた顔をしている写真は本番では使えないから、コラムのときに東さんのその顔と俺が髪の毛剃った顔のイラストを発注して出したらそれがウケたんです。社内的にもものすごくウケたので俺良い仕事したなと思っていて。

そうしたら局次長が飛んできて、「お前な、この紙面。勝手にやったろ? これもな制作費が掛かってるんだ。お金かかってるの」と言われ、「お前の髪の毛のあるイラストな、あれ捨てたから」と、「え、捨てたの?」となって、剃ったスタイルを続けなきゃいけなくなって。仕方なくこのスタイルになったら、そのうちこのスタイルが良くなりました。ただ、そのコラムはもう無いんですけどね。

野村

僕は見た目はこんな感じなんですけど、実は実家は床屋なんですよ(笑)。

僕が子どものころは、まだおしゃれハゲって概念がなかなか存在しない時代で、かなりの人の髪型がバーコードの時代だったんですよね。

寺沢

どんなにどんなに髪の毛がなくても、思いっきり横から髪の毛を持ってきちゃっては、中曽根元首相みたいにバーコードヘアーにするわけですよ。髪の毛で地肌を隠せないけど隠すみたいなね。

野村

他にはカツラしかなかった時代だから、僕も中学生のときには実家の床屋が年末がすごく忙しいんで、タオル洗いとかの手伝いをしているんですね。ちょうどそのときにバーコードの方が来たんですよ。シャンプーの後にドライヤーを掛けたとき、バーコードの人は髪の毛が片側だけなんで、髪が国旗のようになびいたんですよ。それがあまりにもツボでそのまま耐えきれなくて家の中に入ってしまったことがありましたね。

そのころから自分の頭が後退し始めたら、潔く剃ろうと思っていたんですよね。それが意外と早くそのタイミングがやってきたんですね。前職のNTTDocomo時代に外に打合せに行った際、エレベーターの中にカメラがあって、そこにモニターがあるわけです。

寺沢

あるある。しかも映さなくていい後頭部あたりから映すものがありますよね。

野村

そのモニターを見ていると、一人だけけっこう薄い頭の人がいるなと最初見ていたんです。そうするとアレ?位置的にこれ俺じゃね?と思って、ちょっと頭を動かしてみたらモニターのハゲ頭が動いたわけですよ。俺は人から見たらこんななんだと初めて気づき、その月に剃りましたね。

寺沢

やっぱり五厘ぐらいだと髪の毛があるから、みんなの反応が何やっちゃってるんだよってなるけど、完全にハゲにした初日は誰も何も言わないね。俺はかみさんに怒られたもん。「何やってんの!娘が!」と言われたんだけど、娘は関係ないじゃんと思ったよね。

平林

以前テレビでハゲで得すること損することのインタビューがあったんですよ。例えば得することでは、いつもみんなの人気者って書いてあったの(笑)。

寺沢

人気者というか覚えられますよね。髪の毛があるときは、どこにでもある顔だったんですけど。だけど最近ハゲも多いんですよ。

野村

多いんですよね。子どもが親父を間違えるんですよ。

寺沢

ときどき親子の釣り大会をやるんだけど、必ず参加してくれるハゲがいて、その子どもが俺のところに来ても「パパ」って言うから「パパじゃない」ってね。わざと言ってるんだろ、絶対わざとだなって。

野村

人の見極め方に関して、ハゲはあまりにも安易になるんですよね。