なぜ福島へ行こうと思い立ったのですか?

元々震災直後からボランティアはやっていたんですけど、2011年や2012年だととにかく被災地に行けば何かしら役に立つじゃないですか。でも時間が経つにつれて本当に行って役に立ってるのかとか、横浜からアクションを起こしたことが必要とされていることなのか、だんだんわかんなくなってきたんです。現地に行っても今度ボランティアさんが来るから、この作業は残しておこうみたいな話を聞いたり、体育館に寄付されたランドセルが使われずにたくさん残っている状況を見たりして、本当に必要とされていることが何なのか、横浜にいては分からないなという体験をしました。

あとボランティアは手弁当だから、行けば行くほど資金がなくなる。だからボランティアに行くのも経済的に辛くなってきたんです。それでも私は「東北をずっとサポートしたい」と思ったので、RCFという復興支援を仕事にしてる社団法人に転職して、そこから福島県に、双葉町の復興支援員という形で派遣されました。それが2014年の9月です。

福島では実際にどんな仕事をしていたんですか?

まず、双葉町の復興支援員として双葉町役場と一緒に働きました。双葉町は2019年の今でも全町避難している唯一の町なんですが、当時も今も、一番多くの町民の方が避難しているのがいわき市で、双葉町役場もいわきに仮役場を置いています。そのいわき市にある町役場と一緒に、主に双葉町からいわき市に避難されてる方々に対しての支援業務、その中でも、双葉町 の公式Facebookページに記事を書いたり、広報誌を作ったりという、広報支援業務を行っていました。具体的には、双葉町から全国各地に避難している人たちのところへ取材に行って、町民の皆さんに向けて情報発信するのが主な仕事で、その業務を一年半やりました。

その後、2016年4月から福島県の任期付職員になりました。なぜ県職員になったかと言うと、避難している市町村は双葉町だけではないので、避難されている人たちのサポートをするにはもう少し大きい枠組みでやった方がいいと思ったことと、横浜から福島に移住する中で、都心と地方のギャップや、自身の勉強やスキル不足などで、支援員仲間や同僚と少しうまく行かないという現状もありました。

そのときに一番大きく思ったのは、まだ自分は福島に来て何もやれてないのに横浜に帰ってもどうしようもない、絶対帰るわけにはいかないと。横浜に帰らないんだったらどうすればいいのかと考えたときに、仕事を変えるしかなかった。

ちょうどその時に福島県の任期付職員の募集の記事を見つけて、双葉町だけじゃなく、もっと大きなところからアプローチするような仕事をしたいと考えていた思いと一致して、そこで随分久しぶりに受験勉強をしました。高校卒業程度の一般教養ってなんだかよくわからないから SPIかなと思い取り敢えずSPIの問題集を一冊やりましたね。それで受験したら運よく受かりました。

県職員としての勤務先は、通常でしたら福島駅のある福島市の県庁なのですが、私はいわき市で既につながりが出来ていたから、県庁の出先機関があるいわき市を第一希望としました。無事に希望通りいわき市に配属されたので、双葉町の復興支援員の1年半と県職員の3年で、約5年いわき市に住んでいました。

公務員になったのは、3年の任期付だったからです。ずっと民間で、しかも震災前までは10年以上サービス業だった私に、ルーティーンの公的業務がメインの公務員はそもそも向かないとは思っていましたが、ただ3年間限定だったらやれるかもというのと、公務員ってどういう仕事なんだろうとかどういう人が公務員やってるんだろうとか、行政はどういう風に動いてるんだろうみたいなことを中から経験するのは良いかなと思って。

ただ副産物として良かったのは、何といっても福利厚生ですね。有給も取れるし生理休暇も取れるし夏休みも取れるし、ちゃんと賞与もあるし。あと一番良かったと思うのは周りからの信用度が高いこと。地方だと特に、公務員であることの信用度はすごいんです。

それから、双葉町復興支援員は、私の中では不本意な辞め方だったと思うところもあったんだけれども、双葉町復興支援員を辞めても福島県に残って復興の仕事をしているということで、双葉町の人や元同僚との関係が少し良くなったというか、離れたからこそ良い関係になれたみたいなところはあって、いろいろとメリットがあったなと感じています。

県職員になったときは、まだフリーランスになるとは考えてなかったんです。過去に1回フリーランスになって大失敗してるので。その時はならざるを得ずフリーランスになったのですが、絶対雇用される方がいろいろと楽じゃないですか。だから県職員の任期が終わったら、自分の思いに近いNPOに入るとか、漠然とそんな感じで思ってました。

でも、県職員をやっている3年の間に、ボランティアで、いわき経済新聞の運営や個人でのライティングを始めたことで、情報発信を仕事でやりたいという気持ちが強くなり、自分が本当にやりたいことをやろうと思ったら、どこかに所属するよりフリーでやるしかないんだな、と。シフトしたというよりは自然とそうなったのかな。特に公務員は縛りがきついですからね。とはいえ、初めからフリーになるつもりは全然なかったと思います、今思い出してみると。

実際に福島に住んでいて意識は変わりましたか?

ずっとヨソモノだよね、とは思います。ただ私がいま、ライターを仕事にするにあたって、自分がヨソモノで移住者だと打ち出したほうが仕事を取りやすい気がするから、言い続けているところもありますけどね。「私は横浜出身で5年前に福島に移住しました」って今でも自己紹介の時には言うけれど、でもだんだん言葉や訛りも移ってきたりとか、いろいろなところに取材に行くから、意外と現地の人よりも地域に詳しくなったりとかするところもあって、だからもう「麻衣ちゃんって別にこっちの人じゃん」と友だちとかは言ってくれるけど、でも地元の人からするとやっぱり全然ヨソモノだと思う。自分の意識もヨソモノ。

とはいっても、最近自分が横浜の人っていう自覚も少なくなってきたんですが(笑)。一応福島県民歴6年目だから、福島県民のつもりだし、横浜市民では無いのだけど(笑)。

いわき経済新聞で編集長になった経緯

みんなの経済新聞ネットワークの関係者から、いわき経済新聞を現地でやっていた人が出来なくなったから、誰か出来る人はいないかと言われたんです。はじめは現地のNPO二つぐらいに心当たりがあったから、そこと一緒にやろうと思ったんですね。でも結局私が一人でやることになりました。いわき(福島)に移住して、あまりにも福島の現状が横浜というか他の地域に届いてないという気持ちがすごくあって、何か発信したいと思っていたんだけれども、来たばかりの時はこっちのことが分からな過ぎて、私に発信する術もなければ、今はまだ私が発信してはいけない時期だと思っていた。

前身のいわき経済新聞が2016年の年明け位から運営が難しくなったみたいで、そのときの私は双葉町の復興支援員を一年半やって県職員になるタイミングだったから、結構自分が自由に発信してもいいような立場になっていたし、自分の中で発信したいことが溜まっていたり、いろんな方と触れ合うことで少しは私も発信できることがあるんじゃないかっていうように思い始めていたときで、私もちょうどメディアが欲しい時期だったんです。

だから私がやりますと言って、実際に引き継いだのが2016年11月でした。元々があるので私は二代目の編集長。その頃は本職は県職員だったのだけど、私はいわきの現状を発信できるメディアが絶対に必要だと思ったから、ボランティアでもいいからやりますと言って引き受けたんです。

福島には福島民報社と福島民友新聞という地元2紙があるんですけど、いわき経済新聞はなるべく民報とか民友が載せないような記事を載せようと心がけました。いわき経済新聞が所属するみんなの経済新聞ネットワークの記事は、ヤフーニュースの地域版に転載されるのですが、そこには、福島民報・福島民友・いわき経済新聞の記事が並ぶ訳だから、同じニュースになってもしょうがない。だから2大地方紙には載らないような細かいニュースを、いわき経済新聞では取材しようというコンセプトでやっているんです。