勝ち負けの状態が不自然

いきなりぶっ飛んだことを言うと、最近「勝ち負け」って何だろう、不自然じゃないかな、と思っていて。勝ち負けは社会性動物以外はまず持ちえない感覚なんだろうなと思っています。社会性のない動物は、多分勝ちとか負けを考えないし、どうでもいい。人間は社会的な動物なので、子どもでも勝った負けたで大喜びするじゃないですか。勝ち負けって、ヒエラルキーみたいな社会性の証明なんだと思ったんですよね。でも、もう一歩メタレベルに上げて考えると、勝ち負けよりも、共生の方が社会性動物としては大事であるはずなんですよ。

メディアが今みたいに発達する前は、上下関係でヒエラルキーを作らないと共生出来なかったんだと思います。でも今はどんどんフラット化して勝ち負けの感覚はいらなくなってきている。ただ、本能としては勝ち負けの感覚って残っていて、本能を発散するために勝負はあるんだな、と先日ラグビーを見ていて思いました。人生で初めてラグビーの試合を始めから最後まで見たんですが、あんなに痛そうなことまで我慢して勝利を目指すなんて、不自然だけどすごいなと。

その感覚は昔からあった感覚ですか?

もともとではないです。ふと気づいたら、そういう気持ちでした。昔はどっちかと言えば負けず嫌いだったと思います。ラグビーの試合はあくまできっかけで、自分が今そう考えていることに気付いたんです。

勝ち負けが嫌いでもないし、スポーツ嫌いでもないんですが。チャットモンチーの歌で「恋の煙」だったかな。”当たりくじだけのくじ引きがしたい”という歌詞があって、たぶんみんな勝ちだけの勝負をしたいんだと思うんですね。それも、事前に自分では勝つか負けるかわからないと思わされた上で、勝てる勝負がしたいんだと思うんですよ。

基本的に負けたい人はいないですよね

そこなんですよ。みんな勝ちがよく負けが良くないという感覚が絶対じゃないですか。ただ、例えばサッカーで言うと、ほんの10センチだけポールの右側をボールが通っただけで、もう国民全体が悲しんだりするわけじゃないですか。でも物理現象としては、ボールが10センチ横を通っただけなわけですからね。それって、例えば人工衛星が惑星への着陸に失敗したんだとすると、それは人類にとっての損失だから、それを負け、というのとは意味が違う。

ほかにも、トーナメントでも勝った人間が上に行くじゃないですか。でも勝った人間が上に行く理由って、能力が高いからだ、と思いがちですけど、勝負が常に勝ち負けの能力の証明かというと実は違う。しかも能力が高いといっても営業マンとしてものすごい数字を挙げる能力と、経営をうまくやりこなす能力は同じじゃないみたいなことを考えると、営業成績で出世する人間を決めるのは必ずしも合理的じゃない。だけど、人間はヒエラルキーを作るもので、そのためには、地位の上下が必要になる。そこに、勝負、という感覚を敢えて持ち込んでるんじゃないかな、と思う。むしろヒエラルキーが先なんじゃないですかね。人間はヒエラルキーを作りたいから、勝ち負け、なんてものを作りだした。

ポピュリズムと民主主義の違い

ほかには、私は以前、ポピュリズムと民主主義の違いが分からなかったんですよ。結局多数派が勝つ話なら、ポピュリズムのやってることは正しいじゃん。じゃあポピュリズムと民主主義は何が違うのか、ポピュリズムは敵を作る。わざと敵を作り、敵の敵は味方だからと数字を作っていくと、それはポピュリズムです。だから敵のいないポピュリズムはありえないし、そこで二項対立にするから、ポピュリストは基本的には民主主義とは最も反対のものなわけです。民主主義とは本来敵は関係ないはずなんですよ。その辺が変だと思いながら、正義を振りかざす人たちを見ています。

SNSで端的に偏る人もこういった流れで出てくることがふえましたよね

連帯しやすくなったことと、フィルターバブルみたいに、自分と同じ意見の人が見つかるから正義を振りかざす人が出てくるんだと思うんです。僕が一番今、楽しいと思って参加しているものに、クイズサークルがあるんですが、本当のクイズマニアで異常にモノを知っている人たちが集まっているんですよ。みんな何でも知っているんですけど、この人たちは全員オカルトが大好きで、全員ノンポリなんですよ。何十年も知識を集め続けることを習性にしている人たちからすると、何らかの偏った立場を取ることは、何らかの情報の欠損を意味するんです。

科学的真実は別として、どんな意見にも、絶対に別の意見はあるんですよ。科学は反証可能性があるから、科学は科学としてほかの宗教とは違ったものとして成立しているわけですが。圧倒的な知識を集めている人たちからすると、絶対の正義があるなんて思ってない。その知識人たちは”常に修正可能で、現状この選択肢がまだマシである”という考え方をする人しかいないんですよ。だからみんなノンポリなんです。絶対真実だと思っていること。例えばそのどんな対立でも、だいたいの対立は自分の都合の良い情報を採用している入れているだけですよね。「相手が正しいかも」と仮定する力がない。みんな相対化が足りてないんですよ。

出来るだけ相対化して、修正可能性を持つこと

昔は、ちょっとでも公の場に批判が出ると「こんなこと書かれては大変だ!」大騒ぎしていた、いまでも古いタイプのメディア人はそういうことを懸念している気がしますが、若い世代はどんどん寛容になってきていて、アンチがいることを分かった上で、「好き」と表明出来るような時代になったと思います。

最近聞いた話ですが、宗教の信者が増えるときは、予言が当たったときよりも、予言が外れたときなんですって。これはサンクコストの問題。今まで自分たちが信じていた神の言ったことが外れだったとなると、信者たちはいやそんなはずじゃないと今までやってきたことの価値を確かめるために、布教をめちゃくちゃ頑張りだす。

何かを信じることは合理的じゃないんです。別の合理が存在することを信じる。これとこれとこういう条件がそろったので信じてもいいよ、とプレゼンしても、人間はものを信じない。お金の場合は、条件がそろったら「買い」ってこともあるかもしれない。コンテンツ的なものはみんな本来お金がどうとかじゃない。自分の好きなアーティストのCDが1万円だとして、でも全然興味がないアーティストのCDが100円だったら買うか、ってそんなことないですよね。

完全無欠なコンテンツって存在しない、ただ、人の心を打つコンテンツは存在する。しかし、反対意見も必ず存在する。だからアンチがいたってコンテンツは存在するんです。むしろ、いろんなことが可視化されている今は、アンチがいるコンテンツこそ意味がある。逆にアンチがいないコンテンツには、まったく価値がないんだと思います。

ここで大切なのが、相対可能性というか修正可能性ですよね。どんな主張を持っていても良いと思うんですけど、修正可能性がないことが一番良くない。修正可能性が常にあるべきだと思います。

たとえば今の常識だと、政治の世界だと、例えば自民党から突然共産党に鞍替えしたら、票が集まらなくなると思います。でもそれは修正可能性を有していると評価することもできる。ただ、そんな考え方は、ほとんど世の中にない。

平林

当たり前のことですよね。

吉田

そうなんですけど、わりと世間ではそうではない。それは今までやってきたことが全部嘘だと思うと悲しいからじゃないですか。

同調圧力の類もありますよね。

吉田

それはめちゃめちゃありますよね。そうじゃないと組織は維持できない。でも、組織がなくても、今は情報でもなんでも、集まりますけどね。