意味を1つに規定しないことが大事

僕は中学高校とダウンタウンさんがすごく好きだったのですが、ダウンタウンさんのコントで今も忘れられない1本があります。ダウンタウンのごっつええ感じが終わったあとにスペシャルがあって、そこであったコントで、「正義の見方」というコントです。それを見たときすごくびっくりしちゃって。それは松本さんが、ヒーローになって怪獣と闘っているんだけど、そのヒーローは凄く中途半端なサイズ感で、仮面ライダーとしてはめちゃ大きいんですよ。でも、ウルトラマンにしてはめちゃ小さい。ただ、なまじっか見た目がウルトラマンぽいので、そのヒーローが現れたとき、市民役の浜田さんが「ちっちゃ」って言うんですね。で、それを聞きつけた松本さんが浜田さんの自宅に乗り込んで「君は僕をちっちゃと言ったけど、それは怪獣と比較して小さいといったんだよね。僕の見てくれから僕をウルトラマンだと誤解して、ウルトラマンサイズ的にはちっちゃと思ったんだろうけど、僕はウルトラマン系じゃなくて、仮面ライダーZというライダーなんだ。ライダーとしてはめっちゃでかいから怪人相手には無敵なのに、なまじっかでかいから怪獣も相手にさせられてるんだよ」と説教するコントなんです。

もう、すごいもの見たなって思ったんですけど、要はそれってものの見方の話じゃないですか。松本さん扮するヒーローは間違いなくヒーローのはずだし、正義の味方のはずなんですけど、見てくれがすごく問われている。お前はライダーなのウルトラマンなの、どっちなのって問い続けられてきたんですよね、きっと。コントを見ていて、ドキドキしちゃって。

昔からそういうのがすごく個人的に好きなんだと思うんですよね。だからものの見方ひとつでどっちとも取れるという話で、例えば僕が企画した「注文をまちがえる料理店」も、ある人から見れば認知症の人がすごくキラキラ働いている素敵なところに見えるし、すごくギスギスした会社の人間関係に悩んでる人から見ると、寛容な社会の象徴ですねと、見え方が少しずつ変わるわけです。

僕からすればどちらでもよくって、ものの見方が多様な方がいいし、意味を1つに規定しないのは、やっぱり大事だなと思うんです。これはこういう意味でやりましたって、作り手が言っちゃった瞬間、超つまんないものになる。それよりも意味とか解釈が、受け手に全部委ねられていることの方が、結果的にめちゃくちゃ面白いものになるし豊かなものになる。正解なんて別にないわけです。

分かった気にならない

僕は、簡単にわかった気にならないというのを大切にしたいと思っています。簡単にAだからBみたいなことをパッと言えちゃう人もいるんですけど、僕はそれをしようとは思わない。むしろ、それは本当なのだろうかと先伸ばすようにすることもあります。それはNHKで「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組を担当していたときに、プロデューサーにめちゃくちゃそういう考え方を叩き込まれたからなんですよね。「お前はすぐにわかりました!って言うけど、簡単にわかりましたって言うなよ」って。でも、ディレクターとしては、わからない状態っていうのは不安で仕方がない。プロフェッショナルの場合、40日相手に密着してロケと取材するんですけど、刻一刻と放送日が迫ってくるじゃないですか。それなのに「簡単に分かったって言うな」と言われ続けると、でも分かるためにやっているんですよと言い返したくなる。本当に禅問答みたいなんですけど、「簡単に分かるな」という言葉はすごくショックだった。

結局さっきの名刺の話と一緒で、この人は〇〇のプロだと思った瞬間に、もうそうとしか見ない。でも本当にその人がなんのプロなのかとか、その人が大切にしている流儀っていうのは、そんなに簡単にわかるはずがないですよね。本当に、穴が開くほどに相手の一挙手一投足を見て、考えて、考えて、考え抜かないと見えてこないんですよ。だから、人間や世界の成り立ちが簡単にわかるはずがないという前提にたって、自分のものの見方を疑い続けろってことなんです。それはプロフェッショナル班にいた4年半、ひたすらプロデューサーに言われ続けたことでした。

よく「注文をまちがえる料理店」をみて、寛容さの象徴ですよねとか言われます。あるいは「今の不寛容な社会に対してメッセージはありますか?」と聞かれることもあります。でも、そんなことを聞かれても僕には分からないわけです。その「不寛容」は何をもって不寛容と言っているのかもよく分かりません。みんながそれっぽく、わりとしたり顔で言うじゃないですか。今は不寛容な時代ですよね、とか。だけど、それってわかったつもりになっているだけで、実はよくわからずに発している言葉かもしれませんよね。

そういうなんとなく使ってしまっている言葉って結構あると思います。たとえば「認知症」という言葉はもちろんみんな知っています。でも、本当に認知症を知っているかというと知らなかったりするじゃないですか。僕自身がそうでした。今僕は40歳ですけど、身近に意外と認知症の状態の人はいなかったりする。それなのに、なまじっか言葉は知っているものだから、「認知症ってヤバイ病気でしょう」とか、「徘徊でしょ」とかで終わっちゃう。そうするとその先って何もないじゃないですか。思考停止になってしまう。それはすごくもったいないなと思うんです。

僕は、認知症介護のプロフェッショナルの和田行男さんの取材をしているとき、「注文をまちがえる料理店」を思いつきました。和田さんの現場に行く前までは、認知症の取材をしたことがなかったので、先ほど言ったようなネガティブなイメージしかもっていなかった。

※「プロフェッショナル 仕事の流儀」介護福祉士・和田行男さん

でも、和田さんの施設ではそんなイメージをひっくり返すような世界が広がっていました。「認知症になっても最期まで自分らしく生きる姿を支える介護」というのが和田さんの信念ですが、和田さんのグループホームでは、認知症の状態になってもみなさんが料理や洗濯、掃除に買い物、何でも自分でできることはやっていた。それで、ある日の昼食の献立はハンバーグって聞いていたのに、餃子が出てきたことがあった。僕は驚いて「間違っていますよ」って言おうとしたのに、みんなパクパクと美味しそうに餃子を食べている。

僕は、間違いというのは、その場にいるすべての人が受け入れてしまえば、間違いじゃなくなるんだということに気づいて、そこから「注文をまちがえる料理店」を思いつきました。言葉にすれば当たり前の話ですが、ものの見方ひとつで世界はぐるりと変わるということを知りました。

中途半端なプロフェッショナルは厄介

僕が「注文をまちがえる料理店」を思いつけたのは、僕がその業界のど素人だったからだと思っています。ハンバーグが出てきたのに、みんな和気あいあいと餃子を食べている!ということに心動かされたのは、少なくともその場では僕だけでした。それはなぜかといえば、福祉の専門職の方から見れば、それが“日常”の風景だったからかもしれません。素人にとっては新鮮なことも、その道の専門家からすれば当たり前ということはよくあります。でも、イノベーションの種というのは意外とそういうところに潜んでいるのではないかなと思います。

僕は、一番ヤバいのは「中途半端なプロフェッショナル」の存在だと思っています。その業界でずっと生きてきた人が、たとえばフォトグラファーでもなんでもいいんですけど、「カメラマンになるなら普通は師匠をつけないとだめだよ」とかアドバイスしてくれるじゃないですか。親切で言ってくれているんだと思うんですけど、「普通は、~~するでしょ」というその一言がイノベーションの芽を摘むことがたくさんあると思っています。

僕は、「中途半端なプロより、熱狂する素人の方が強い」とよく言っています。それを言うようになったのは、5年くらい前だと思います。当時、YouTuberが出てきたときにすごく思いました。当時、YouTuberの作るコンテンツはどれも「ひどいコンテンツだな」と思ってたんですよ。僕からしたらどうでもいいことを世の中に垂れ流しているだけのどうでもいいコンテンツだと。だけど、あれよあれよというまにYouTuberが小学生のなりたい職業1位になっていた。もちろんテレビ局のディレクターになりたいなんて言う小学生はほとんどいないですよね。そのとき僕は、自分は「中途半端なプロ」だったんだなと思ったんですよ。コンテンツ作りの本当のプロフェッショナルだったら、あのYouTuberが持っている熱量とか、本気で自分が作りたい世界をつくろうとしている熱狂に気付いていなきゃいけなかった。でも、僕はもう頭でっかちに「コンテンツとは、我々NHKが作るようなものをコンテンツと呼ぶのである」と思い込んでるから、そのイノベーションの芽を無視しまくっていた。むしろ、くそコンテンツだとか思って、見下しているようなところすらあった。

コンテンツってのはさ、やっぱり作り込むものだし、ちゃんとお金をかけて時間かけて手間もかけて、職人がプロが作るものだと。そこでこっちは思考が止まっちゃうんですね。だけど、YouTuberのような「熱狂する素人」からイノベーションが起きるんですよね。「熱狂する素人」は作りたい世界に一直線でいくからヤバいんです。コンテンツとはこうあるべしとか関係ないじゃないですか。

本当に今は良い時代だと思うんです。個がちゃんと立っていられるというか。弱い個人でも、自分が本気で見てみたい、作ってみたい風景をちゃんと大きな声で発信すれば、助けてくれたり、応援してくれる人が現れる。「注文をまちがえる料理店」をやっていて、そのことを強く思いました。一人ひとりが自分の名前で生きてくことが、決して不可能ではない。

レッテルに囚われないために、はみ出せ

冒頭に戻っちゃいますけど、レッテル、たとえば認知症であるとかNHKのディレクターであるとか。もう自分自身が一番レッテルに全部囚われちゃう。だからテレビ局のディレクターなんだから番組を作らなきゃいけないと思い込む。これもすごいバイアスなんですよね。僕は電通に行くまではNHKはオワコンだと思ってたんですよね。自分と同じくらいの世代の人はほとんど観ていなかったから、恥ずかしいみたいな。でもNHKから半歩はみ出したときに、もう一回自分の居た場所を見ると、めっちゃ可能性がある。すごいじゃんここって素直に思えた。自分の中でNHKに対する勝手な思い込みが凄かったですね。だけど半歩はみ出すと、その思い込みが抜けました。「隣の家の芝生は青い」って言いますけど、自分一人でそれが出来たんですね。隣のお家に行ったら、意外と自分の家の芝生って青々してステキじゃんと思った(笑)。

小国さんにとって余白とは?

僕はこの名刺だと思います。僕の名刺、余白だらけ、真っ白けっけなんです。これは自分の中では、あえて作っている余白だなって本当に思います。何度も繰り返してしまうけど、自分自身がたぶん一番規定しちゃうんだと思うんですよね。俺なんてとかね。どうせサラリーマンなんでとか、どうせベンチャーなんでとかね。でも、そんなことはないんですよ、きっと。だから、この余白だらけの名刺を作ってよかったなって今は思っています。もちろん、名刺を渡すほうも渡される方もお互い超絶面倒くさいんですけどね。説明に15分ぐらいかかるから(笑)