日本に帰ってきて気づく違和感

東京を歩いていると目が合わないですよね。私は田舎ものなので、東京で目を合わせてしまうとキャッチで来られるとか、そういう感覚があるんですよ(笑)。東京にいるとなるべく目線を外そうと思うんですよね。例えば渋谷とか新宿を歩いているときに、敢えて目を合わせることってないじゃないですか。

平林

目を合わせて話すコミュニケーションがないでしょう?

高野

ないですね。ブータンから帰ってくると違和感を感じましたね。だってブータンでは普通に知らない子どもたちが、おじちゃんおじちゃんと寄ってきてくれる世界なので、それを日本で逆にやってしまうと。。。ですよね。

国の幸福度とは

平林

僕が聞いたのはバングラデッシュがなぜか高いってことを聞いていて、国が幸せだって感じているっていうのは。ブータンなんかもそれは高いほうなんですか?

高野

私もまさにGross National Happiness(GNH)という幸福度の調査をしていたので、ブータンももちろん低くないです。世界の一般的な幸福度調査というのは、テンプレートの質問があるんですよ。「あなたはいま10段階でいうとどれだけ幸せですか」と0から10段階でつけるんですけど、ブータンは6ぐらいなんですよね。

平林

ちなみに日本でやるとどれぐらいなんですか?

高野

日本も6ぐらいです。でもそれって文化差が出ます。例えば西洋の国の中には10を規定したときに、それよりも良くなければ9→8→7と下げていくんですけど、我々はやっぱり中庸で5から入ってそれよりも良かったら6→7と付けて行くんですよ。ですので0から10の付け方自体に文化差が出るので、国際比較するとブータンとか日本が今上位に位置する北欧の国などより高くなるのは、その質問をベースにする限りにおいては難しいと思いますね。また、国を越えてしまうと、私は数字で比較する意味はあまり無いと思います。もちろん社会基盤の整備状況とか、ジェンダーギャップを測る国会議員の女性の割合とかを比較する意味はあると思うんですけど、人の主観的な幸せに迫れば迫るほど、今の方法論において他の国と比較することは、あんまり意味はないかな。

ブータンの幸せは、ハイタッチして「いえい!」というような高揚する感情のものではなくて、どちらかと言えば平穏です。だからある種、6とかがちょうどいい。それはけっこう日本も近いので、我々も良いことがあり過ぎると、逆に悪い事があるかも知れないと思ってしまう習性があるじゃないですか。正直10は付けないですよ。良い状態でもだいたい7ぐらいじゃないですか。あとブータン自身も自分たち自身が世界一しあわせな国と言っているわけじゃありません。ただ国の目標としてGDPを越えて、GNHという人の幸せが一番大事だという目標をしっかり持っているわけです。

これはやっぱり画期的で素晴らしいことです。それに基づいて幸せを司る省庁もありますし、地域別に実際に幸せを測り、その低い要因は何か、その低い要因に対してしっかりと政策の予算をつけることもやっていますので、そこは本当に学ぶべきところですね。

多様性という言葉がもたらしたもの

日本はどうしても価値観自体のバラエティーが多くない。ただ今の幸せ観は相当拡がってきているし多彩なので、そこをいかに許容出来るか。今までの幸せは生活水準とか所得水準であり、GDPが規定していた認識が多いけれども、だけどそれだけじゃあ見えない世界になってきているので、GDPがいくら高い国でも貧困は確実にあるし、GDPが低い国でも生き生きと生きている人はいるので。どちらかというと自分が価値だと感じることができること、自分がこうありたいと思う状態で居れること、それが可能になるか、その選択肢がいかにあるか。この可能性の拡がりが地域の豊かさになっていくと思います。

1つの指標に収斂するような豊かさではなく、みんなが持っているいろんな芽が発芽出来るような豊かな土壌があり、それを寛容できる環境こそが新しい豊かさを作っていく条件なんだと思いますね。だから結局、A/B/C/Dみたいな選択肢がある中でAを選ぶならいいけど、Aしかないなかで、Aを選ぶのとではプロセスが違うので、これだけ経済的に豊かになったことは先人に感謝し祝福して、その富をしっかりいろんなところで、可能性の選択肢を拡げていくことに分配して行く時代なんだと思います。

豊かな地域や国は、自分がこういうことをやりたいと思うことが出来ることや、自分がこうありたいと思うように居れることを実現できる、そんな選択肢が多い地域なんだと思いますね。日本はそういう意味では少し単一的な価値観を比較的押し付けるというか、一つのレールに乗っているところがあるので、時代としては今は移行期なんでしょうね。

先に言葉ばかり先行しているかも知れない

高野

そこは問題意識がありますね。多様性はちゃんと日本では話をしたほうがいいでしょうね。

平林

多様性って日本のなかにもともとあんまりなかったものだから、そういうのが日本で拡がろうとしても、根本の部分から理解しないでいたら、たぶん広がらないんじゃないかな。むしろ世の中の流れ的には、多様性と逆の方に行っている部分がすごくみんなの中にあって、それを感じるんで、どうしたらいいのかなって。もしかしたら多様性なんていらないんだと言い切ったほうがいいんじゃないかとかね。

高野

多様性でなくて単一のレールだけでみんなを幸せに出来る世の中の状況であれば、それはそれで割り切り方があるんだと思うんですけど。例えば、働き方で言えば、昔は多くの人が大企業に行くみたいなしっかりとしたレールを敷いていた時もあったんでしょうけど、そのレールは今は思った以上に細いですからね。そのときに多様な価値観はダメって方向に戻るというのは難しいと思いますね。

あと世界中でその方向に向かっているので、日本だけがこの流れを止めるってことは多分ありえないんですよね。根底にある日本の独自性は尊重しながらも、世界の中の日本である、という認識は持っておかないといけない。

平林

自然にそうなってくるのかな?

高野

そうなると思いますよ。

平林

いろんな国を見ていると、どうしても多様性を嫌でも思い知るじゃないですか。それが自然に染み付くじゃないですか。そういう人たちにとっては当然のことなんだけど、当然じゃない人たちに、その当然を分かってもらおうと思っても、なかなか通じないんで、どうやったらこんなに狭い範囲でいられるのかなと外から見ると思っちゃうんだけど。

高野

やっぱりブータンの人とかも隣にインドやネパールの方がいるから、別にブータン語と英語だけじゃなくて、ネパール語とヒンディー語もしゃべるわけですね。だからもう多様性なんて当たり前で、学校のクラスに多様性がないってことがない。我々は顔とか人種上はほとんどの人が日本人だということもあるので、その外見以外のところで、多様性があるところを互いに認識する機会がないと厳しいんだと思います。海外だと外見が異なるいろんな国籍の方が身近にいるので、多様性が普通だと思うんですけど、僕らってもうちょっと内側に入って行かないと、多様性って意味が分かり得ないのかなと思うことがありますね。