芸人から今の仕事に転身されてどのくらいになりますか?

もう約20年になりますね。

もうそんなに経ってるんですね!

飯田

あまり経っていないようで意外と経ってますね。そのころの芸人仲間で今も第一線で忙しくしている人たちもたくさんいますし、新たなフィールドで活躍している人もいます。たまに当時の仲間とはフェイスブックでやり取りをしたり、会って飲んだりしてます。

これまでの経験は、今の仕事でプラスになっていますか?

飯田

大きい小さいはありますけど、プラスになっていることが多いと感じています。ただ、積み重ねた経験によって自分自身が偉くなったと思うことはありません。

僕は一般的な“普通”の中の一員でいることがどうも苦手で、バンドをやりお笑いもやり、いわゆる世の中の大通りから外れてたんですよ。

今うちの子どもたちがピアノを習ってるんですね。ピアノの先生って、自分より若くても、やっぱり先生として尊敬するじゃないですか。先生自身のピアノのスキルはもちろん、生徒それぞれに応じた教え方で上達させているんだなってことが分かるから、それに対し尊敬の念を持って接する自分がいるわけです。

でも自分は誰かに何かを指導出来る様な資格を持っていないので、そんな自分がええ格好をすると、相手が嫌な気持ちになるんじゃないかと。だから、なるべく僕は下手にいようとしてしまう。

それって昔からなんですか?

飯田

昔からですね。周りからも、もうちょっと偉そうにというか、年相応の立ち振る舞いをしたほうがと言ってくださる人だったり、そんなにヘコヘコしなくていいのにって言われたり。これはモト冬樹さんの付き人時代に言われたエピソードで、そろそろ芸人としての仕事もちょこちょこいただいていたときなんですけど。

当時ホンジャマカの恵さんとこれからデビューするぐらいの若手が集まったバラエティー番組のロケがあり、カメラが回ってない時に恵さんに、今の飯田くんは付き人じゃないんだから、もっとタレントらしく堂々とした方がいいよと言われて。それまで全然気付かなかったんですけど、撮影現場で一番ペーペーみたいに装っているのが良くないとアドバイス頂いたんです。

でもそっちのほうが自分にとって居心地が良かったんですよね。芸自体も大したこともなかったし、誰かより優れた知識やネタを持ってるわけでもなかった。だから常に下手にいる方が過ごしやすかったんだと思います。でも、それではプロとして次の仕事には繋がらないってことに、その時は気付けなかったんですよね。

小さいころ、堺正章さんが僕のスターでした

小学校4年5年のころに漫才ブームがあり、クラスメイトや先生を笑かすことが好きな子たちは、将来の夢は吉本とかお笑い芸人と言ってました。「そっちの道へ行きたいなー」と思ってたけど、父親が学生時代にジャズバンドをやっていたのと、3つ上の姉の影響でエレクトーンを習っていたこともあり、音楽の世界も好きだったんです。

ドリフターズなどのエンターテインメントは、しゃべくりだけのお笑いじゃなくて、楽器も出来て、リズミカルなネタや音楽を取り入れたコントやお芝居をされていたので、自分的には「あ、こっちが好きかな」と思ってました。当時『新春スターかくし芸大会』が毎年テレビでやっていた頃、堺正章さんが僕にとってのスターでした。ああいう人になるためにはどうしたらいいのかなと思ってたけど、子どもの頃はその方法は分からずで。

バンド活動から芸能の道へ

高校では軽音楽部に入り、大学でもバンドをやってました。そのバンドではアマチュアバンドのコンテストで全国大会の準グランプリをいただき、それがきっかけで上京してデビューすることになったんです。そのときはいわゆるバンドマンでしたけど、その先には堺正章さんみたいな、自分が憧れた世界もあるかも知れないとやっていました。でもその後バンドは23歳の時に解散したんですけど、その直前にたまたまご縁で、モト冬樹さんが所属していた事務所の方と知り合いになりました。そしてそのバンドが解散したときに、まだ東京に残って芸能の世界で何かしら仕事がしたいと思い、その事務所宛に手紙と履歴書を送ったんです。そしたら翌日に社長から連絡があって、とりあえず話を聴いてくださる展開になりました。

そこで、これまでの経緯と、芸能界で仕事をして行きたい旨を話したら、いきなりテレビに出れるような甘い世界じゃないから、ひとまず明日からはモト冬樹の現場で付き人でもやってみないかと。現場に行けば食うには困らないし、家賃分くらいは面倒見てあげるからと言われて、即「お願いします!」となりました。その翌日からモト冬樹さんの現場に行く生活が始まりました。初日はフジテレビで、『志村けんはいかがでしょう』の収録現場でした。お客さんをスタジオに入れての公開収録だったので、冬樹さんのコント衣装の早着替えの手伝いをしながら、舞台袖から志村さんのコントを見て大爆笑してました。

翌週には『ものまね王座決定戦』や『夜もヒッパレ』の収録スタジオ。番組以外では、ビジーフォーとしての活動はその頃はやっていなかったんですが、冬樹さんのソロ名義での営業スタイルとしてバンドをやっていたんです。そういう現場だと楽器のセッティングをしたり、冬樹さんがマネする田村正和さん風のもみあげを作ったり、ギターアンプの上に長渕剛さん風のサングラスを置いたり、そういうことをやっていました。

いわゆる漫才師のお弟子さんになると、現場はほぼネタ番組とか劇場だけど、幸いモト冬樹さんは音楽やバラエティー番組だけじゃなく、ドラマや映画などお芝居もやられていたこともあって、僕には勉強し甲斐のある毎日でした。トータルで3年ほど冬樹さんのお付きをやらせて頂きました。2年目ぐらいにちょうど『ボキャブラ天国』など、若手芸人が活躍できる番組が増え始め、いわゆる若手お笑いブームが来たんです。それを見て「これや!」と思い、冬樹さんの現場に通いながら、夜中は自宅でコントの台本を書き始めました。

最初はひとりで、渡辺プロダクションがやっていたお笑いライブの中の、新人による登竜門コーナーに出ていました。そのライブに数回出た頃に、のちにサービスパンダというコンビを組む相方と出会いました。