余白は作らない

米山さんは「余白」をどう捉えていますか?

米山

「余白」は作らないようにしてきたかな。いま質問で聞かれているから余白を意識しているかもしれない。でも僕のような人間は常に余白は作らないようにと思ってしまうんじゃないですかね。「余白あり」の状態を自然に意識して生きている人が大勢になったら、社会はもっと豊かになるかもしれない。

余白と余裕は違うんですかね。

米山

違うと思う。余裕をどのように持たせるかという考え方自体、僕にとっては余白を持たない感覚です。逆に余裕を持たせるという考え方は、きちんと計画することだと思うんです。

もしかしたら日本的な「間」の考えかたに近いと感じるかもしれないけど、でも「間」も一つの計画された空間であって時間だとすれば、余白ではない。

平林

成り行きで生きてたら作れないってことですか?

米山

そういうことです。それは多分に計算されていると思います。

この1年はそういう意味では突然時間が空きました。それでさえ自分では余白でなかった気がするんですよ。客観的には何もしていないから余白だらけですけど。でも自分では一生懸命何かしなきゃいけない、産み出さなきゃいけないと常に考えていた気がします。

やっぱりそうなってしまうんですね?

米山

空いた時間は生じますよね。そういう時、 僕はとにかく余白は生じないように考えてしまう。これは理想的な生き方とは逆かもしれないけど。

建築系の人に聞くと、計算されたうんぬんの話になることが多かったので。

米山

それは僕からすると余白じゃないんです。僕はどうしても余白というのは今ひとつピンとこない。ちょっと古いけど、昔のカセットテープで言えば、何も録音してないところ、何も手を付けていないところです、余白は。僕はそういうところは埋めてきた。

音楽で言えば無音かな。

平林

それでいうと無音と休符は別ですよね。

米山

無音と休符はそう、近いけれど別ですよね。休符は「音のない空間」を創出しろって意味ですからね。

平林

休符ってそこに何もないのではなくて?

米山

何もない状態を作るってことですね。

平林

意図的なものがある?

米山

そうですね。

平林

たぶん建築的なものも何もないんじゃなくて、そこに空気があるというか。

米山

そういうことですよね。だからやっぱり平林さんのおっしゃる通りかも知れません。無音と休符の違いです。僕はそういうことを意識してしまうわけです。

無音と休符の関係は、たしかにそうですよね。

米山

それは明確ですごく実感出来ます。たとえばヨーロッパの著名な音楽家が演奏する音楽を聞いている時に、「間」の感覚をそれほど分かってないんじゃないかと実感する時がよくあります。

平林

前にハンガリーのブダペストにあるオペラ座に行ったことがあります。でもそれが運悪くたまたまオペラ座に行けると思ったら、その時の演目が日本から来た歌舞伎だった。そこでやっぱり感じたのは、僕には未だに歌舞伎ってわからない。

ヨーロッパのものは例えば建築や音楽とかすべて音符で埋め尽くされている感じがする。逆に日本のものは休符側、無の側な気がします。歌舞伎をオペラ座の空間で見たときに焦れったくてしょうがないわけなんですね。でもそのスゴい「間」を見た時、その「間」の中にすごくアクティブなものを感じたんです。そこで余計にこんがらがったのは、建物の雰囲気がものすごく洋風の建物で複雑な気持ちになりましたね。逆に初めてそこで歌舞伎を見たから、逆さから見れたのかも。

日本人が語る「日本人」

その「間」の感覚、いま平林さんが言ったような「オペラ劇場で歌舞伎を鑑賞する」という体験は、我々日本人にとって実はそれほど珍しいことでもないと思うんです。というのは恐ろしいぐらい明治=近代になって、日本の伝統は断絶したんじゃないか。

たとえば、ワイドショーでのコロナウイルスの話題でもそうですが、「日本人って」と日本人がよく言う。自分だけが客観的な視点で見ているかのように。でも客観視できてるんじゃなくて、「日本人であること」自体が非日常的、言い換えれば他人事のような感覚で、それを語るときにはクリティカルな態度にならざるを得ないんじゃないか。

それと同様に、「伝統」という本来、誰にとっても日常的な要素が、私たちの中では遠くなってしまった。伝統的にどうなんだと自然に言える人は少ないんじゃないですか。それはすごく実感するんです。

まだ明治生まれの人がたくさんいた時代は、江戸時代の人が親なんで違ったかも知れない。だけど今生きてる人間は、極端に言うと、昔「日本」があったという感覚の人が少なくないと思います、僕も含めて。日本の伝統的な文化や美意識はあるんだけど、リアルじゃないし、いま自分たちに流れているものは違う。

今の話を聞いていて、ふと思ったんですけど。江戸時代から生きてきた人は、明治で一回クライシスが起きるじゃないですか。で、太平洋戦争が終わった後にまたクライシスが起きるじゃないですか。2回人生の中でそんな大激動が起きた人は、どんな感じなんだろうと思って。

平林

今までこうであるべきだと思って信じてやってきたことが、否定されるわけですよね。

米山

そうですね。

平林

わからないのは「日本人は」って思うじゃない。でも世の中に国って何百ってあるじゃない。うちら「日本人は」って日本と外国、その他全部で固めて考えちゃうじゃない。ほかの国ってどうなのかな、個別に見たらどんな感じなのかなって。こんな感じの雰囲気の国もあるのかな。

どうなんですかね。そういう歴史をたどってきていると言えばそうだし。そうでないと右向け右でいきなり変われないですからね。

平林

主体性がないよね。

いつから主体性がないのかわかんないですけどね。結局まだ占領されているような雰囲気なのかも。

だから普通に高校ぐらいまでで習う歴史の授業は太平洋戦争までほぼいかないじゃないですか。それが問題だという話もあって。逆算で見ていった方が実は若い人にはいいんじゃないのかな。明治からの方が大事じゃない「いま」って思う。

平林

わざとなんじゃないの?

米山

そうかもしれない(笑)

世界史も日本史も合わせて現代史をやってから戻ったほうが絶対いいと思うんです。だってナチスってカッコいいみたいになってるじゃないですか。おかしいだろって。昔の話と言えば、それはもちろんそうなんですけど。

平林

意外と日本人が日本のことについて一番知らないのかもしれない。

韓国なんて、その辺の時代のことを先にやるじゃないですか。だからすごく若者にも齟齬が生じるだろうなとは思いますけどね。

米山

そうですね。「歴史」として整理し難い要素が近過去にはある。そういう機能を持たせて教育するかどうかだと思うんですよ。別の国の話が出たけど、今から遡って近い時代のことから始めるのは、そのほうが効果的な面があるからじゃないか。それもまた歴史教育としては行き過ぎな場合もあると思いますが、おそらく太平洋戦争まで来ず明治で止まってしまうのは同じ理由であり、それ以降の時代は純粋な歴史じゃなくて、違う部分の機能が多分にあるからじゃないですかね。

平林

何かに利用されそうな感じもするし。

米山

本来はもちろん太平洋戦争以降も歴史として、近世と変わらないスタンスで教育すべきなんだろうけれども、そういかない。

平林

割とドイツはそこらへんを普通にやってますよね。

米山

自己反省をあれだけ出来る国は、逆に客観視出来ているんですよね。科学的思考で「反省を続けるべき」と判断できる。

勿論それはリテラシーに深く関わっていて、たとえばSNSでも「知らないって怖い」とかいう言葉はよく見る。「知らないって恐ろしい」とか、「知らないって怖い」って。でもなんのことかと言うと、次に続くのは、大抵デマです。デマに対して真剣に「知らないって怖いですね。みんな気をつけましょう」って言っている。論理的に考えればデマって分かるのに、客観視ができない。

だからさっき話していたけど、そういうことに踊らされるのも本当にいかにリテラシーの問題なのかと。